November 11, 2011

未来

我々の神も我々の希望も、もはやただ科学的なものでしかないとすれば、
我々の愛もまた科学的であってはいけない謂れがありましょうか。

                          オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン 「未来のイヴ」

 Keep Walking - "Johnnie Walker" Dante Ariola


これから書くことは、観賞する上での魅力や嗜好ではない。

映画というのは、良かれ悪しかれ、作り込む部分がある。
ハリウッドの何が凄いかというと、いろいろあるが、そのひとつに照明の物量がある。
日中晴天の屋外でさえ、照明で作り込んで舞台化してしまう力だ。

ヨーロッパの映画がなんとなく陰鬱で重苦しい印象を与えるのは、間違いではない。
アジアの映画がなんとなく貧相で切実な印象を与えるのも、間違いではない。
誤解を承知で暴論を書くならば、こういった印象の主な原因は照明にある。
つまり、予算がないのだ。
これをマイナス要因ではなく、プラス要因として捉えようとする言葉は言い尽くされてきた。
曰く、「陰影」や「重厚感」、「芸術性」といった、なんとなく高尚な受けとめられ方をする言葉である。

ところが10年程前から次第に、こういった製作事情による照明の差は減少するようになった。

照明が画像処理の進展によって受けた最大の恩恵は、3つある。
1つ目は、全般において、光を制御できる領域が拡大したこと。
2つ目は、特に動画において、複数の光軸を完璧に同期できるようになったこと。
3つ目は、前述の恩恵が、撮影の自由度を拡大したこと、である。
かくして、異様に綺麗な画面が大量生産されるようになった。
綺麗というのは高画質という意味ではなく、光や光軸が揃っているという意味である。
ヨーロッパやアジアを問わず、それなりの照明でも画像処理によって綺麗になったのだ。
異様な程に。

古今東西を問わず、どんなジャンルでも職業になるとリスクを減らそうと努めるようになる。

例えば、まず、映像に関わる専門家たちに意識の変化が現われた。
真っ白く飛ぶハイエストや真っ黒く潰れるローエストを異様に恐れるようなったのだ。
明でも暗でも、何も写っていない部分は情報ゼロと同義なのだから、解からなくはない。

そこへ、版権会社が加わるようになった。
映画は、セールスプロモーションであってアドバタイズそのもの、と考える専門家たちだ。
キャラクターやガジェットの類は、細部まで見せた方が説明しやすく、売りやすい。

更に、保険会社や投資会社が加わるようになった。
役者やスタッフのスケジュール、ロケ先のセキュリティ、天候に合わせた照明のセッティングなど。
撮影条件を揃えるという最も手間のかかる浪費を、何よりも嫌悪する専門家たちだ。

古典的な合成技術だが、三者三様の都合が画像処理によって複雑に絡み合っている。

 Virtual Backlot Reel 2009 - Stargate Studios


作り手の都合など、受け手にとってはどうでもよい。
ただ、それでも、両者は何かをやりとりしているのだと思う。
その何かが何なのかは、よく解からない。

レンブラントの作品「テュルプ博士の解剖学講義」は、他作品に比べて評価が別れる。
完璧な照明は、確かに、虚構にさえ見える。
絵画だから、というのは手段の話であって、理由にはならない。
作り手は手段や都合に関係なく、見方と見せ方の責務から逃れられない。
この作品の製作当時、彼は名誉を欲していたらしい。
過去、数多の無名の受け手たちは、無意識の内に当時の彼の欲を見抜いている。
やはり、作り手と受け手は何かをやりとりしているのだと思う。

技巧として完成した作品「夜警」の時代、彼の裕福な生活はピークを迎える。
そして、神域に到達したとされる晩年の作品「自画像」の時代、彼は妻も子も財産も失っていた。
情緒にすぎるかもしれないが、現実が不幸であるほどに作品は輝いた。
光の魔術師と呼ばれて責務を果たした彼でさえ、デウス・エクス・マキナを賜ることはなかった。
神様は、そういう都合のいい妥協の一切を嫌うのだ。

レンブラントは技巧の果てに、光の荒々しさに辿り着いた。
仮に、彼が画像処理という手段を得ていたら、どのような光の見方や見せ方をしただろう。
そう思うと、今の画像処理というのは、「テュルプ博士の解剖学講義」の段階なのではないか。
綺麗すぎる、と思うのだ。

生きているかぎり、目を開いているかぎり、光を見ることからは逃れられない。

見るという日常的な行為は、皮肉にも、最も惰性に堕ちやすい。
現実の光は、常に新しく荒々しい儘なのに。
誰も彼もが、画像処理という甘言に惑わされる。

もちろん、結果は別として、それらの妥協や惰性に挑もうとする人たちがいることは、信じたい。
作り手と受け手は、何かをやりとりしていると思える人たちを、信じたい。
その何かが何なのかは、よく解からないままだとしても、だ。

ところで、未来だ。
2027年は現在よりも更に厳しい社会になっているようだ。
でも、たった16年後と考えれば、それほど技術が進むとは思えない。
ただ、自分が警官隊に撃たれるデモ側に参加している確率は、情けないが高いかも。
まあ、まだタバコが存在しているらしい描写があるので、ちょっと安心したが。
タバコもなしじゃあ、例えCGだとしても見続けるのは辛いからね。
愛については、過去も未来もどうなるものでなし。

さて、一服しようか。

 The Year is 2027, In God We Trust One. - "Deus EX : Human Revolution" Jean-François Dugas