ディスコチカ・アバーリャ (
Дискотека Авария)はどうでしょう。
英語表記なら Diskoteka Avariya と書き、意味は Disco Crash となります。
文字通り、ダンス・ミュージックを中心とした曲作りで数多くのヒット曲を飛ばしています。
実は、1980年代のユーロビートや1990年代のハウスが今も大人気の国、それがロシアや東欧諸国なんです。
(Nano-Techno - Diskoteka Avariya, Mv : Andrew Mudrov, Russia 2011)
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(Backstage clip Nano-Techno - Diskoteka Avariya, Mv : Specialline, Russia 2011)
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Нано-Техно - "Недетское время" Дискотека Авария (Nano-Techno - "No Children's Time" Diskoteka Avariya) |
こんな、過去の体制を笑い飛ばすようなMVに至るまでには、長い道のりがあったんですよ、書記長。
【 1980-е годы 】
1980年代、東側の人々が普段の生活でどんな音楽を聴いているのか、情報はほとんどありませんでした。
需要と供給の関係で、そういうことを知りたい、伝えたいと考えるようなマスメディアも西側にはありませんでした。
個人で調べようと思っても限界があるし、それは専門家でも似たような状況だった、と言っていいと思います。
でも、東側の人々は密かにラジオで西側の音楽を聴いてるらしい、くらいの噂は伝わってくるんです。
物資不足の中、壊れた家電製品から部品取りした自作のアンプで隠れて演奏してる、とかね。
ストラビンスキーとニジンスキーによる「春の祭典」暴動など、体制にとって音楽は時に脅威になり得ます。
そんな状況ですから、当時の政治的な和解ムードは西側のミュージシャン達にも少なからず影響を与えました。
思い出したら本人も悶絶するであろうMV、エルトン・ジョンの「ニキータ」が世界的にヒットしたのもこの頃です。
ベストヒットUSAで観た当時、単純に「ひゃー、ロシアの女性ってすげー綺麗だなあ」と思ったものです。
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Anya Major & Andreas Wisniewski "Nikita" Elton John |
このラブコール、実は本物の東側の要素がひとつもない、というオチでした。
エルトン・ジョンはイギリス人だし、撮影許可の問題でロケは全て「西」ベルリン側。
女性兵士役のアンヤ・メジャーはアップル・コンピュータ社のCM「1984」で人気の出た、イギリス人のモデルさん。
上官兵士役のアンドリアス・ウィスニスキーは007やダイ・ハードなどにも出演した、「西」ドイツ人の俳優さん。
ご愛嬌だったと気付いた頃、1989年にベルリンの壁が崩壊、いよいよ本当に「鉄のカーテン」が開きます。
【 1990-е годы 】
1990年代の初頭、ロシア産のゲーム「テトリス」が世界的に大流行します。
BGMに採用されたロシア民謡「コロベイニキ」や「カリンカ」をあれだけ耳にしたのは始めてではないでしょうか。
そして、ドクター・スピンの迷曲、いや失礼、名曲が東側でも馬鹿ウケらしいと噂が伝わってきます。
なんだ、ロシア人も意外にノリがいいんじゃないか、と安心したものです。
1991年、ついにソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が崩壊、現在に至るロシア連邦が誕生しました。
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Tetris - "Tetris" Doctor Spin |
そうそう、カウリスマキ監督の映画によって、架空から現実になったのが「レニングラード・カウボーイズ」でしたね。
フィンランド出身でありながらロシアン・テイストを前面に押し出した彼らのスタイルに世界中が驚きました。
この頃から、東側で音楽的な突破口を見い出そうとする音楽関係者が実際に東西を往来するようになります。
現在のロシアで成功したプロダクションは、人脈や経営ノウハウも含め、大抵この頃に創業したりしています。
しかし、純ロシア産というブランドの登場は、まだ暫く待たなければなりませんでした。
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"Leningrad Cowboys Go America" Aki Kaurismäki Finland & Sweden 1989 |
シンセポップ(日本では何故かエレクトロポップと呼ぶ)の代表、ペット・ショップ・ボーイズはそのよい例でしょう。
あれだけ共産思想を説いていた東側が、まるで西側みたいな拝金思想にあっさりコケてしまうなんて。
誰もが金儲けこそ正義と唱えるマニフェスト・ディスティニー(明白な使命)に対して、茶化したくもなるってもんです。
1979年のビレッジ・ピープルに由来する曲「ゴー・ウエスト」のMVでは、「赤い」自由の女神が出迎えてくれます。
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Go West - "Very" Pet Shop Boys |
1990年代の後半になると、東側でも西側の情報が自由に公の場で見聞きできるようになります。
西側の情報とは、海の向こうのアメリカではなく、陸続きの身近な西ヨーロッパから入ってくる情報です。
これが、当時人気のあったユーロビートやハウスが東側で高い人気を獲得する直接的な原因となりました。
影響を受ければ、俺達だって、と思うのはごく自然な成り行きですよね。
1999年12月末日、エリツィンが引退、プーチンが登場します。
ゴルバチョフが生贄になり、エリツィンが下地を慣らした後、プーチンによって新生ロシアは完成しました。
新・超富裕層とも呼ばれるオリガルヒ(新興財閥)がロシアのメディア産業まで独占するのは有名な話です。
古今東西、エンターテインメントには良い意味で、潤沢な資金力を持つパトロンの存在が欠かせません。
かくして、西側と同じように、東側も「パンのみに生きるにあらず」なんて言葉は忘れ去ったのでした。
【 2000-е годы 】
2000年代の初頭、純ロシア産のブランドが初めて世界中のヒットチャートを賑わします。
日本でも有名になった女性グループ、タトゥー(t.A.T.u.)です。
元々はプロデューサーや他の様々なメンバーも含めた音楽プロジェクトの全体をタトゥー(
Тату)と呼んでいました。
ボーカルのリェーナとユーリャの二人組みユニットを指す場合、正確にはタトゥーシュキ(
Татушки)と呼びます。
それは兎も角、このタトゥーには個人的な思い入れがふたつあります。
ひとつめは、企画立案者のボイチンスキーがユーゴスラビア紛争のNATO空爆で肉親を失っていること。
巨大な体制が瓦解し、生まれ変わろうとする混乱に巻き込まれてしまった悲劇、としか言い様がありません。
彼は故郷の国名から「ユーゴスラビア」という曲を作詞作曲し、これがタトゥーの本当のデビュー曲となります。
いつも眺めていたドナウ川の情景、失った肉親への償い、臆病者になってしまった自分への戒め。
素朴な歌詞とシンプルな旋律、これをまだ14歳だったリェーナが訥々と歌っていたんですよ。
聴きたければYouTubeでユーゴスラビア(
Югославия)と、タトゥー(
Тату)かリェーナ(
Лены)で検索してください。
ロシアン・ギャルだ、未成年のレズビアンだ、そんな西側みたいな宣伝文句で掻き消されてしまったいい曲です。
しかし、いい曲だけれど辛く悲しすぎた、そればかりが原因ではないですが、残念ながら全く売れませんでした。
ふたつめは、一気にレベルが落ちるけど、ミュージック・ステーションをドタキャンしたこと。
もし、口パクでもいいから歌ってくれていたら、日本でのロシアの音楽を取り巻く環境は相当違ったはず。
ハリウッドすらビビらせた奔放っぷりは、コントラクトの通じない連中として後々まで引き摺りましたからね。
今でこそ「行き過ぎた演出だった」と反省しきりですが、いろんな意味で今でも頭にくるくらい残念でした。
さて、有名なヒット曲は「All the Things She Said」ですが、個人的には「Not Gonna Get Us」が好きです。
スピルバーグの映画「激突」とコンチャロフスキーの映画「暴走機関車」を足して割った様なMVが良かった。
それに、この曲はアルバムのタイトル通り正に「200 km/h in the Wrong Lane」って感じでしたから。
なお、最初から世界展開を前提にプロデュースされているので、一般的には英語版が公式として流通しています。
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Нас Не Догонят - "200 По Встречной" Тату Not Gonna Get Us - "200 km/h in the Wrong Lane" t.A.T.u |
2000年代の後半に入ると、もう、音楽的にも映像的にも東西の区別がない状態になります。
そこで、モルドバ(旧モルダビア・ソ連)出身のダン・バラン(Dan Bălan)と聞いて、ああ、と頷く人はいるでしょうか。
彼は以前、ルーマニアのオゾン(O-Zone)というグループのリーダーだった、と言ったらどうでしょうか。
そう、日本人の空耳によって流行した通称「恋のマイアヒ」(原題 Dragostea Din Tei)の後、ソロデビューしました。
今でも東欧圏やヨーロッパでは人気のある人だし、日本のFM局で流しても違和感がないと思うんだけどなあ。
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"Chica Bomb" Dan Bălan |
バラン、あんた「チカボン」だけしか歌ってなくないか。
ま、それはそうと、最近デビューしたロシアや東欧圏のミュージシャン達の歌詞の言語ですよ。
英語圏の市場が大きくて、その方がより多くの耳目に触れやすいというのは充分に理解できます。
でも、どこの国でも通じる単純な歌詞になり易く、それは少々問題に思いますね。
さて、今回はこのくらいでお開き、ディスコチカ・アバーリャ版の「A Ram Sam Sam」で〆ましょう。
元々はモロッコ発祥の童謡で、ヨーロッパやユーラシア大陸の東側にある国々では広く親しまれています。
日本なら「むすんでひらいて」と手遊びしながら歌う感覚ですね、YouTubeにも動画が沢山アップされていますよ。
基本は A Ram(ア・ラム、アラン)、Sam Sam(ザム・ザム)、Guli Guli(グリ・グリ)…という囃子言葉の繰り返し。
途中の A Rafiq(ア・ラフィ-ク、アフィーキ)とはアゼルバイジャン語やダリー語などで「お友達」という意味です。
(Fashion Dance Aram Zam Zam - Diskoteka Avariya, Mv : Alexey Golubev, Russia 2009)
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XXII Олимпийские зимние игры XXII Olympic Winter Games |
子供たちの好きな音楽って、人は本来、皆で一緒に楽しむ音楽が好きなんだろうな、と気付かせてくれますね。
【 Примечание 】
「ロシアの男は強くて賢い、そして、ロシアの女は綺麗で優しい」
ロシアに興味を持つようになった理由は、祖父がよく褒めていたからです。
祖父は満鉄の駅員で、もう少しでウラジオストクに手が届くという場所で働いていました。
ある冬の夜、家のドアを蹴破ってライフルを構えた三人のロシア兵達が押し入ってきたんだそうです。
外満州の国境近くですから、どこの軍も統制や規律はあってないようなものだった、らしいです。
祖母は直ぐに、生まれたばかりの赤ん坊(親父の兄)を庇い、必至に命乞いしたそうです。
ところが、祖父は度胸の塊みたいな人でした。
大声で、しかも日本語で、ロシア兵に向かって思い切り「馬鹿者」と怒鳴りつけたんだそうです。
すると、その大声に一番びっくりしたのが赤ん坊で、返すように大声で泣き始めた。
すると、ロシア兵たちも驚いたらしく、何故か、その中の一人が赤ん坊の頭を軽く撫でてくれたそうです。
この時の様子を、祖母は生きた心地がしなかったと言っていました。
そして、祖父が手振り身振りの片言で会話を交わした後、ロシア兵たちは何も盗らずに出て行きました。
外は零下ですから、壊れたドアを応急処置で直しながら、祖父は祖母に向かって言ったそうです。
「あの兵達にも家族がいるだろうに、こんな僻地でいつ死ぬか解らんとは、可哀想なものだ」
敗戦後に帰国した場所は、現在でもロシアとの貿易が盛んな港街でした。
筆者の通っていた高校はこの港街の近くにあり、外国人といえば寄港しているロシア人たちでした。
それなのに、ロシア人の話っていうのは、飲み屋で暴れて大騒ぎになった、くらいしか耳に入ってこない。
アメリカ人なんて一人も見かけないのに、アメリカの話はメディアを通じて雪崩のように入ってくる、この不思議。
東西対立のニュースが流れたりすると、「国の優劣じゃない」といって、祖父はロシア人を褒めていましたね。
すみません、こんな話をするつもりはなかったんですが。
これだけネット環境が普及しているのに、国境がないはずの情報そのものに未だ地域格差がある。
勿体ない、それだけです。
もう少しマニアックな情報も含めて、次回もロシア特集です。
( Techno 5 : Russia 2-2 / 未定 )