むかしむかし、あるところに、フクロウとウサギがいました。
フクロウは夢を見ることができませんでした。
ウサギは夢を見ることができました。
夢を見たいフクロウは、ウサギに言いました。
「どうして夢を見ることができないのかしら」
ウサギは、それはあなたが夜寝ないからです、と言いました。
フクロウは夜寝ることにしましたが、それでも夢を見ることができません。
怒ったフクロウは、ウサギに言いました。
「夢を見れないなら、あなたを食べてしまいましょう」
慌てたウサギは、こう言いました。
ウサギの国の真ん中には大きな柱があって、その柱のてっぺんに神様が住んでいます。
どうしても夢を見たいなら柱を登り、神様に会ってお願いしなければなりません。
フクロウは柱のてっぺん目指して飛び立ちました。
フクロウは一心に飛び続けましたが、柱のてっぺんに辿り着けません。
フクロウは疲れきってしまい、とうとう羽ばたくのをやめてしまいました。
フクロウは目を閉じると、真っ逆さまに落ちていきました。
神様はフクロウを憐れみ、落ちていくフクロウに夢を贈りました。
フクロウははじめて夢を見ました。
そして、フクロウは地面に落ちて死にました。
ウサギはとても悲しみ、涙を流すと、地面を踏み鳴らしました。
するとどうでしょう。
山が揺れ、海が割れ、ウサギの国は大地の底へ沈んでいったのです。
ミハリス・アウゲリス編纂の「イソップ物語」にのみ掲載されたとする、架空の一篇「柱の王国」の覚え書き
東周斎雅楽 / 魚戸おさむ 「イリヤッド」より
|
Nobel Prize Concert Nobel Media AB & EuroArts Music International GmbH |
キリエは、南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経みたいな感覚だ。
キリエ、アーメン、オーマイゴット、主よ憐れみ給え、主よ然り(在るがままに)、おお我が主よ。
神様も仏様も不信心であることは許してくれないが、便利なことや効率的なことは意外にお許しくださる。
誰でも覚えられる、唱えれば万事オーケー、という文言が必ず用意されている。
聖書は、読み物として、おそらく世界で最もつまらない。
世界で最も売れたかもしれないが、最もつまらない読み物だ。
旧約にしても新約にしても、神様と人間の契約書、あるいは約束事をまとめた本なので当たり前かもしれない。
ただ、当時の教養や道徳、識字率などを考えると、余計なことが極限まで省かれたんだろうな、とは思う。
原因だけ、結果だけ、それらの反応もなれば、感情まで省いて次の章へ飛んだりする。
そんなつまらない読み物なのだが、一方で、解釈によってどうとでも解釈ができる。
宣教師が一問一答しながら、あるいは読み手が自問自答しながら、好きなように解釈ができる。
読み物そのものが貴重だった時代に、物語の土台として、これ以上はないというくらいの素材が詰まっている。
燭台の下の聖書を前にあれこれ思いを巡らせる、昔々、それはそれは、無上に贅沢な一時だったろう。
前述のフクロウとウサギの話は、
東周斎雅楽の創作だ。
一時期、東周斎雅楽とは一体誰なのかといろいろな憶測が飛び交ったが、現在は誰なのかが判明している。
この手の話がとにかく上手くて、イソップ物語ならそんな話があってもおかしくない、と見事に騙された。
覚え書きなんで申し訳ないが、要はそんな話だったと思う。