かなり前に住んでいたアパートでのことである。
右隣の部屋の住人に一度も会ったことがなかった。
他の部屋の住人には、たまにすれ違う程度ではあったが、何度か会ったことがあった。
しかし、右隣の住人は、住んでいるらしい気配を感じても顔を合わせるような機会はなかったのである。
その、住んでいるらしい気配は、煙草を吸う時などにベランダ越しから見える洗濯物の様子で窺えた。
アパートの隣人なんて、特に気にする必要もない。
ところが、この右隣の部屋の住人は、洗濯物が異様だったのである。
干してある衣類は普通なのだが、干し方が尋常ではなかった。
例えば、洗濯ハンガーにズボン1本を干すとして、あなたならどうやって干すだろう。
洗濯ハンガーは、洗濯バサミが何十個かぶら下がった、どこにでもある洗濯ハンガーである。
ズボンはズボンとしか言いようがないが、何でもいい、とにかく干すのは一着のみである。
大抵の人は、洗濯ハンガーの真ん中あたりに干して適当にバランスをとると思う。
右隣の部屋の住人は、洗濯ハンガーの一番端にズボン1本を平気で吊るすのだ。
結果、洗濯ハンガーは斜めに傾き、ズボンも斜めに反って、横から見て「く」の字に干された状態となる。
これを最初に見た時、百歩譲って、物凄く適当な性格の住人なのかと思って笑ってしまった。
しかしそうではなく、ちょっとまともではないなと察し、笑えなくなるのに時間はかからなかった。
いつも「く」の字になった洗濯物は風に揺られ、ベランダのコンクリート床に引きずられて円を描いていたのだ。
ズボンやワンピース、コート、ストッキング。
そういう長物の裾が、乾くまでの間、ベランダのコンクリート床の砂埃に何重もの円を描く。
洗濯する意味があるのだろうかと問いたくなるくらい汚れるのだが、乾く頃にはいつの間にか取り込まれている。
そしてまた、濡れた洗濯物が「く」の字に干されるのだ。
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Rain - "Bicep" Bicep Ninja Tune |
「本当は恐ろしいグリム童話」も「まんが日本昔ばなし」の怖いお話特集も、結末は同じようなものだ。
先日の放火事件だってそうだ。
幽霊や怪物ではなかった。
一番怖いのは人間なのだ。
右隣の部屋の住人には、終に会わずじまいである。