8月29日。
「ステロイド入りにしておくか」
二回目の通院。
ステロイド入りって、それ更に高い薬ですよね、とは聞けずに黙って頷く。
返事がないと思ったらしい医者が振り向いてきたので、もう一度頷いた。
「拡散は止まったようだがね、このままじゃ感染症が怖いから」
皮膚や神経が弱まると、部位的に感染しないはずの水虫にすら感染してしまう。
それを防ぐ為、内服薬の抗生物質と併用して、外用薬の軟膏を塗る。
これがもう独特のベタベタ感で、治療の為とは理解できても、気持ち悪いものは気持ち悪い。
「それで、抗鬱剤はどうするかね?」
前回の治療で初めて知ったのだが、要は「病は気から」ということだ。
帯状疱疹は痛みと見た目が酷く、精神衛生上で参ってしまう患者が多い。
統計的にも、細かいことを気にしすぎる人が再発しやすい、といった性格との関連があるらしい。
「因果関係は兎も角ね、どうするかね?」
考え込んでしまった。
実は、ここ数カ月間、抗鬱剤については頭の隅にあったのだ。
迷う。
「迷うくらいなら、飲まないことだね」
迷った理由は二つある。
一つ目は、経済的な事情だ。
習慣化すると、どんどん投与量を増やさねばならなくなる。
二つ目は、心情の問題だ。
例えば明日、土曜日の朝。
起きて、おはようと言う。
今言った「おはよう」は、自身が言った言葉なのか、抗鬱剤に言わされている言葉なのか。
これが解らなくなるというのは、やはり恐ろしいと思うのだ。
そして、それを恐ろしいと思える方が、気分が滅入っていたとしても正常な人間だと思うのだ。
正常な人間とは何か。
この自問自答は危険すぎる。
本当に時計仕掛けのアレックスになってしまう。
実は欲しいなとは思ってたんですが、そうですね、飲まないことにします、と、はっきり答えた。
Saturday Come Slow - Massive Attack, Vo : Damon Albarn, Mv : Adam Broomberg & Oliver Chanarin
8月31日。
別居することにした。
ここ数カ月間、もう、話し合いで話せることはなくなっていた。
非は全てこちらにある。
こちらが単身で、9月上旬に千葉の実家へ戻る。
Flush - Losers, Ft : Riz MC & Envy, Mv : Tom Werber
9月1日。
仕事もなく寝込んでいる傍で、子供が遊んでいる。
笑顔は、なにも理解していないし、なにもかも理解している。
よし、まだ動いて遊ぶのは無理だけど、何か一緒に、そうだ音楽でも聴こうか。
あのね、昔々、ある処に、モーツァルトっていう凄い人がいたんだ。
それでね、そのモーツァルトって人は、音楽を作るのがお仕事だったの。
でもね、ある教会のある音楽を聴いて、すごく綺麗だなあって感動したんだって。
テレビもパソコンもない大昔だから、綺麗な音楽っていうのは今よりも価値があったんだよ。
音楽を聴けるのって教会くらいしかなかったし、だから尚更、楽譜は教会の秘密だったんだ。
楽譜っていうのは音楽の元みたいなものかなあ、他の人には内緒にしてたんだね。
モーツアルトはどうしたかっていうと、まるまる全部、聴いて覚えちゃったんだ。
今、こうやって聴けるのは、モーツァルトがお家に帰って、楽譜に書いてくれたからなんだよ。
綺麗だと思うかい? 思わないかい?
どっちでもいいんだよ。
でも、ちょっとでも綺麗だと思ったら、それは素晴らしい出来事なんだ。
ミゼレーレっていうんだ、覚えてね。
駄目な父親だ。
本当に、ごめん。
ごめんよ。
Miserere - Gregorio Allegri, LSO St Luke's in London Symphony Orchestra, Bc : BBC FOUR