September 4, 2012

丙記

8月29日。

「ステロイド入りにしておくか」

二回目の通院。
ステロイド入りって、それ更に高い薬ですよね、とは聞けずに黙って頷く。
返事がないと思ったらしい医者が振り向いてきたので、もう一度頷いた。

「拡散は止まったようだがね、このままじゃ感染症が怖いから」

皮膚や神経が弱まると、部位的に感染しないはずの水虫にすら感染してしまう。
それを防ぐ為、内服薬の抗生物質と併用して、外用薬の軟膏を塗る。
これがもう独特のベタベタ感で、治療の為とは理解できても、気持ち悪いものは気持ち悪い。

「それで、抗鬱剤はどうするかね?」

前回の治療で初めて知ったのだが、要は「病は気から」ということだ。
帯状疱疹は痛みと見た目が酷く、精神衛生上で参ってしまう患者が多い。
統計的にも、細かいことを気にしすぎる人が再発しやすい、といった性格との関連があるらしい。

「因果関係は兎も角ね、どうするかね?」

考え込んでしまった。
実は、ここ数カ月間、抗鬱剤については頭の隅にあったのだ。
迷う。

「迷うくらいなら、飲まないことだね」

迷った理由は二つある。
一つ目は、経済的な事情だ。
習慣化すると、どんどん投与量を増やさねばならなくなる。

二つ目は、心情の問題だ。
例えば明日、土曜日の朝。
起きて、おはようと言う。

今言った「おはよう」は、自身が言った言葉なのか、抗鬱剤に言わされている言葉なのか。
これが解らなくなるというのは、やはり恐ろしいと思うのだ。
そして、それを恐ろしいと思える方が、気分が滅入っていたとしても正常な人間だと思うのだ。

正常な人間とは何か。
この自問自答は危険すぎる。
本当に時計仕掛けのアレックスになってしまう。

実は欲しいなとは思ってたんですが、そうですね、飲まないことにします、と、はっきり答えた。

 Saturday Come Slow - Massive Attack, Vo : Damon Albarn, Mv : Adam Broomberg & Oliver Chanarin


8月31日。

別居することにした。

ここ数カ月間、もう、話し合いで話せることはなくなっていた。
非は全てこちらにある。
こちらが単身で、9月上旬に千葉の実家へ戻る。

 Flush - Losers, Ft : Riz MC & Envy, Mv : Tom Werber


9月1日。

仕事もなく寝込んでいる傍で、子供が遊んでいる。
笑顔は、なにも理解していないし、なにもかも理解している。
よし、まだ動いて遊ぶのは無理だけど、何か一緒に、そうだ音楽でも聴こうか。

あのね、昔々、ある処に、モーツァルトっていう凄い人がいたんだ。
それでね、そのモーツァルトって人は、音楽を作るのがお仕事だったの。
でもね、ある教会のある音楽を聴いて、すごく綺麗だなあって感動したんだって。

テレビもパソコンもない大昔だから、綺麗な音楽っていうのは今よりも価値があったんだよ。
音楽を聴けるのって教会くらいしかなかったし、だから尚更、楽譜は教会の秘密だったんだ。
楽譜っていうのは音楽の元みたいなものかなあ、他の人には内緒にしてたんだね。

モーツアルトはどうしたかっていうと、まるまる全部、聴いて覚えちゃったんだ。
今、こうやって聴けるのは、モーツァルトがお家に帰って、楽譜に書いてくれたからなんだよ。
綺麗だと思うかい? 思わないかい?

どっちでもいいんだよ。
でも、ちょっとでも綺麗だと思ったら、それは素晴らしい出来事なんだ。
ミゼレーレっていうんだ、覚えてね。

駄目な父親だ。
本当に、ごめん。

ごめんよ。

 Miserere - Gregorio Allegri, LSO St Luke's in London Symphony Orchestra, Bc : BBC FOUR