技術的特異点(テクノロジカル・シンギュラリティ)なんてものは、暫くない。
簡単に要約すると、創造主である人間の知性を、被創造者である人工知能の知性が超える時を指す。
人工知能が人間を超える可能性が、早ければ21世紀中に在り得る危機として報じられている。
偉い先生方や専門家の方々が様々に警鐘を鳴らしてくれているが、恐らく後千年ほどはやって来ない。
18世紀に発生した産業革命は、確かに革命に相応しい出来事であった。
また、そこからの二百数十年間が急速な進歩発展であったことは、文字通りであろうと思う。
そして、いよいよ具体的に、技術的特異点について考え始めてよい時期になったことも認めよう。
但し、まだそれは、紀元前に地球が丸いのではないか、と予想した人々がいたのと同じレベルでしかない。
"Christ Giving His Blessing" Hans Memling, Germany 1478 Norton Simon Museum |
SF好きな人間として、21世紀になって最も衝撃を受けた出来事のひとつは福島の原発事故だった。
正確に書くと、地震の津波による事故は仕方がないとして、その後の処置や対応では本当に考えさせられた。
例えば、誰もがある程度は安心して車を運転できるのは、保険や修理といった社会的な体制が整っているからだ。
福島の原発事故では、それらの社会的な体制が未だ皆無も同然であることが証明されてしまった。
確かフリーマン・ダイソン博士だったと思うが、人類の進化具合をフェーズで示したものがある。
第1フェーズは、地球上に存在するエネルギーを制御可能で、大陸間を往来できる段階。
第2フェーズは、太陽系に存在するエネルギーを制御可能で、惑星間を往来できる段階。
第3フェーズは、銀河系に存在するエネルギーを制御可能で、恒星間を往来できる段階。
現在、核分裂は何かがあれば制御不能、核融合に至っては夢物語、大陸間を往来するには化石燃料がやっとである。
Singularity - "Music Complete" New Order Mute Records |
SF小説があまり読まれなくなった理由、それはネタがなくなったからである。
SF小説は産業革命後の歴史と見事にリンクしているが、その作家たちのアイデアが尽きているのが現状なのだ。
19世紀から1950年代頃までは外へ遠くへ彼方へと向かい、外宇宙に進出しようとするのがSF小説だった。
ところが1960年代頃から、宇宙進出がかなり実現困難な夢想であることが作家たちにも認識されるようになる。
すると、SF小説は内へ中へ精神へと向かい、人間の脳や心という内宇宙に新天地を求めるようになった。
このムーブメントは1970年代頃にピークとなり、1980年代以降はそれらのアイデアの映像化が続いた。
ところがこれも、1990年代頃から次第に、かなり実現困難な夢想であることが明らかになっていく。
SF小説は、サインエスから離れすぎたファンタジーであることが予見されると衰退の道を辿る、という分野なのだ。
Promotional Sci-Fi Short Film "Keloid" Big Lazy Robot aka BLR by JJ Palomo BLR VFX |
For the majority of us, the past is a regret, the future an experiment.
我々の大多数にとって、過去とは後悔であり、未来とは試行錯誤である。
深刻なのは、SF小説がサイエンスから離れすぎずに未来を夢想できる、新鮮味あるネタが見つからない、という現状だ。
日夜そういうことを考えている作家たちでさえ思いつかないと音をあげているのだ。
勝手な私見では恐らく、今後数百年あるいは千年単位で、人類の技術的な進歩は停滞期に入る。
細々した進歩はあるだろうが、歴史に残る革命といえるような技術的な進歩は、暫くない。
最近発見された、地球型惑星を7個も含む恒星TRAPPIST-1(トラピスト・ワン)は39光年
先の彼方にあるそうだ。
いつか物真似ではない本物の自我を持った人工知能と友達になれるだろう。
いつか質量の全てを無駄なくエネルギーに変換できる乗り物に乗れるだろう。
いつか、そういう未来が来るだろう。
後は人類の根気と、絶滅しないことを願うだけだ。