もう少しで退勤という時刻になって、レジの子から呼び止められた。
会計を済ませたお客様から問い合わせがあり、持ち場を離れられないので近場の誰かに振ったという訳だ。
次のお客様の会計を始めたレジの子の向こう側で、そのお客様が待っている。
僅かに見える横顔は、なんというか中性的だった。
服装から二十代くらいに見えるが、だからといって、男性か女性かがはっきり解るような服装でもなかった。
年齢も服装から判断しただけで、まだ子供のような気もするし、もう大人のような気もした。
それにしても不思議だ、日本人なのか、アジア人なのか。
もしかしたら欧米人なのかもしれないが、それすらもよく解らない雰囲気。
あまりジロジロと見るのは失礼だ。
取り急ぎ、生活用品の棚へ向かった。
We Won't Break - "Things Are What They Used to Be" Zoot Woman, UK 2009 |
一応、ここに置いておくから。
先程のお客様は、いなかった。
待っている間、タイムセールでも見にいったのだろう、よくあることだ。
レジの子に洗浄スプレーを言付けて時計を見ると、退勤時刻を超過していた。
退勤時刻の超過は理由書の提出が必要になる。
事務所までの距離がいつもより遠いような気がしたのは、焦っていたからかもしれない。
タイムカードを打刻すると、こんなタイムカードだったかなとしばらく眺めた。
まあいい、喫煙所で一服しながら理由書を書こう。
そう思ってタイムカードの横にある書類ファイルに手を伸ばした。
その時、窓から店の屋上にある駐車場が見えた。
この事務所は二階で、駐車場は三階から上にあるはずだ。
廊下に出てみると、いつもの廊下なのだが、違う。
エッシャーほど整然としておらず、キリコほどずれてもいないが、違う。
少し、遠近感がおかしい。
理由書は明日でいい、経理の〆日に間に合えばいいのだから、もう帰ろう。
帰ろうとして、下の階に降りることが出来ないことが解った。
もちろん階段はあって、ちゃんと階段の構造になっている。
ところが、いざ近づくと、書き割りの背景のような比率で、実際の上り下りは出来そうにない。
窓の外に見える町並みも、一体どこの町並みなんだ。
そうか、窓か。
窓を開けると、冷たい空気が流れ込んできた。
身を乗り出して下を覗くと、ここが二階であることは確かなようだった。
なんとか壁伝いに降り、店の外へ出ることができた。
Radio #1 - "10 000 Hz Legend" Air, France 2001 |
やっぱり駄目か。
携帯が通じないのは覚悟していた。
店の外に面した国道へ歩きながら携帯を手にした時、これは駄目だろうなと思ったのだ。
何故なら、見慣れたキーの配列なのだが、そのキーのひとつひとつが目の形をしている。
そのキーに数字や記号はなく、画面も真っ黒で、不通音すら聞こえない。
仕方なく携帯を胸ポケットにしまいながら辺りを見回すと、ごく普通の商店街が軒を連ねていた。
ただし、この商店街に見覚えはない。
電信柱の住所を見てみると、なんと湯沢と書いてある。
まさか、越後湯沢の湯沢のことなのか。
こんなことってあるのか。
茫然としていると、タバコ屋の前に一人の中年男性がいることに気が付いた。
彼は、タバコ屋の前にある緑色の公衆電話で、必死になって誰かと話している。
その相手が聞き取れないのか、彼の声はどんどん大きくなり、周りに人だかりが出来た。
彼の額には脂汗が浮かび、とうとう喚き散らすような大声になった。
すると、人だかりの中から一人の警官が出てきて、皆の迷惑だから電話を切るようにと手で制した。
彼は受話器を公衆電話に叩きつけ、おかしい、と叫んだ。
中年男性は、おかしい、おかしい、と何度も叫ぶ。
その度に、警官は、そういうこともありますよ、そういうこともありますよ、と穏やかに諭す。
中年男性が憔悴しきると、警官は彼を抱きかかえるようにしてその場から去ろうとした。
待ってください。
思わず、大声で呼び止めていた。
警官は中年男性を抱きかかえ、背を向けたまま立ち止った。
呼び止めたものの、次の言葉が出てこない。
いつの間にか夕暮れ時になっており、商店街の町並みが黒いシルエットになっている。
あれだけ大勢いた人だかりも、どこかへ行ってしまった。
なにをどう言ったらいいのか解らないまま口を開こうとすると、警官は僅かに横顔を見せてこう言った。
吹雪が来る、そこへ向かって走りなさい。
この警官は、知っている。
おかしいと叫んでいた中年男性を、そういうこともあると安心できる何処かへ連れていこうとしている。
鳥肌が立ち、足が震えた。
警官と中年男性の足元は、町並みの黒いシルエットにどんどん呑み込まれていった。
こちらの足元にも迫ってくると、反射的に反対方向へ逃げた。
反対側の町並みは多少明るく、まだ黒いシルエットに没していない。
走って、走って、走る、その反対側の町並みの中央あたりだろうか。
立体的な遠近感のある中央ではなく、平面的な視野の中央が、どんどん同心円状に白くなっていく。
その拡がっていく白さが、渦巻いている。
吹雪であってくれ、そう思いながら、走った。
Hide - "Features" Kris Menace, Germany 2012 |
常世は終わり、現世は終わらない。