May 5, 2013

扶翼

日本で唯一、ということは恐らく世界で唯一、トルコを主要な舞台にした漫画がある。

安彦良和による「クルドの星」が其れで、あまり知られていないと思う。
彼は早くから天才的なアニメーターとして、世間一般に知られたアニメ作品に多く関わってきた。
しかし、アニメという共同作業において監督ではない以上、単なるスタッフの一員に留まることも多かった。

その鬱憤を晴らすように、単独作業で製作が可能な漫画作品では、自由にモチーフを選んだ。
ところが、自由すぎて、売れ筋の雑誌で連載されるような機会は滅多になかった。
満州時代の五族協和やユダヤ自治、明治時代にアイヌ人の偽名で東亜革命に挑む思想家、等々。

仮に手前が編集の立場だったとして、連載の許可に躊躇してしまうような物語ばかりだったのだ。

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"Stevenson Memorial / Winged Figure Seated Upon a Rock" Abbott Handerson Thayer 1903, Smithsonian American Art Museum 

何故、安彦がトルコやその周辺地域をモチーフに選んだのかは、後に理解できるようになった。

彼は「アリオン」で漫画家としてデビューするが、これがギリシャ神話をモチーフにした物語だった。
その為の現地取材や資料収集を重ねるうちに、「クルドの星」の着想を得たのだろう。
両作品の物語に直接的な接点はないが、当時、彼が欧州と中東の歴史的な繋がりを意識していたことは伺える。

あくまでも少年漫画である、という大前提は安彦も重々承知だったと思う。
また、漫画が駄目ならアニメがある、とは思っていなかっただろうが、多忙であったことも容易に想像できる。
高校生の頃に「クルドの星」を読み、安彦自身が未練を惜しんでいるような、尻切れトンボの印象を受けた。

それでも、ナルギレ(水煙管)やケスターネ(焼き栗)といった文言が出てくる漫画は、そうそうないだろう。

"Le Christ mort et les Anges"  Édouard Manet 1864, Metropolitan Museum of Art, H.O. Havemeyer Collection

有名か無名かはどうでもいいのだが、ウィキペディアに記事があるかないかは多少の判断材料になる。

あれだけ有名なアニメーターの作品なのに、「クルドの星」はトルコ語版の記事しかなくてちょっと驚いた。
おぼろげだが、単行本の奥付にはトルコの在日大使館か観光局の協賛クレジットがあったように思う。
その関係の記述かどうかは知らないが、トルコ語の記事に混じるキャラクターの名前が当時を思い出させてくれた。

主人公は、日本人の父トシローとクルド人の母サリーの間に生れたハーフの少年、ジロー・マナベ。
父はオリエント文明の研究に没頭しており、母はジプシーのダンサーで、共に音信不通の状態だった。
生れて直ぐに父方の親族へ引き取られて日本で育ったジローは、ある日、手紙を受け取る。

それは、「イスタンブールに来てほしい」という、母らしき人物からの手紙だった。

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"La Victoire de Samothrace" 190 BC? Found in Samothrace 1863. Photo : Pierre Jahan 1939, Musée du Louvre

単身でイスタンブールを訪れたジローは、デミレル(鉄の腕)という渾名の男に出迎えられる。

この男が政府軍から追われる武装勢力のメンバーだったことから、クルド人の独立問題に巻き込まれていく。
イスタンブールからヴァン、隣国イラクのアルビールを経由して、再びトルコ東部のドゥバヤズィットからアララトへ。
ハインド(Mi-24)に驚愕するシーンがあったと思うが、アルメニアが近づけば旧ソ連の影は仕方がない。

今のようにネットがなかったので、政治的な背景は「現代用語の基礎知識」などで読んだ記憶がある。
そもそもクルド人を知らないから、実際はどんな容貌やどんな風習の人達なのかと図書館へ行ったりもした。
その原動力の根本は、赤毛の不良少女リラやクルディスタンの族長の娘ウルマなど、ジローがモテたからだけど。

そして、アララト山について多少なりとも知るようになった。

"Mariana" John Everett Millais 1851, Tate Britain

男という生き物は、異国情緒や謎解きのある冒険譚に弱い。

「クルドの星」は最終的に、人類史や進化論で謎とされているミッシング・リンクに迫る。
アララト山の高所で、数百万年前の男の遺体が良好な冷凍保存の状態で見つかった、らしい。
その男の遺体は旧ソ連の研究所によって「アダム」と名付けられた、らしい。

何故、あの辺りが歴史的な紛争地帯なのか、何故、クルド人の自治権がなかなか認められないのか、となる。
我々は何処から来たのか、我々は何処へ行くのか、我々は何者なのか、という聖書の件だ。
仮に男の遺体が本当にアダムだとしたら、イブは誰なのか。

どうやら、父トシローと母サリーはそれに関わりすぎ、ジローの出生にも関わる、らしい。

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"Stevenson Memorial / Winged Figure Seated Upon a Rock" Abbott Handerson Thayer 1903, Smithsonian American Art Museum

「クルドの星」を思い出したのは、最近、トルコ関連のニュースを立て続けに目にする機会があったからだ。

一つ目は、オリンピックの招致で、個人的には東京で開催してほしい。
二つ目は、首相の歴訪で、とにかく原稿から目を上げて話してほしい。
三つ目は、印欧諸語の全ての発祥がトルコ地域であるという研究結果を報じたAFPの記事だ。

ざっくり書けば、東南アジアとアフリカの一部を除くほとんどの地域の言語が、トルコから伝播したことになる。
大航海時代の植民地も加えれば、影響を受けていない言語の方が少数派だ。
本当かいなと疑いたくなる研究結果だが、神話を絵空事と馬鹿にしすぎるのも良くない。

ノアの箱舟が辿り着いたのは、アララト山なのだから。